46 夏の終わりに

 この夏はいろいろなことが重なり、とても疲れました。そのせいか、このブログも8月には書けなかった。秋風が吹き始めてやっと落ち着きが出てきました。
 7月末に家内が舌癌をこじらせて亡くなりました。家内は2月から札幌の病院に入り陽子線治療を受けていました。6月までにかなり良くなってきたのですが、7月に入り肺に転移していることが判明しました。舌癌の治療は進んでいたのですが、その陰で癌がひそかに体内に広がっていたのです。
 家内が入院した同じころに私自身が前立腺癌と診断され、夫婦そろって闘病を始めました。しかし、今では一人で病院通いです。
 家内が亡くなってからしばらくして、千葉の山道を運転していたところ、何やら空一面に家内の気のようなものが広がっているような気がしました。そして、家内はなくなってからも自分のことを見ているのか、と思ったのです。しかし、よく考えてみれば、家内の気のようなものを感じているのは私自身であって、私がそう思っているだけです。家内がそこに現れているわけではないのです。
 家内は、もういません。身の回りに何となく気配がするというのは、私が感じているだけです。ついさっきまで話していた人が3日後には骨となって目の前に現れたのです。忽然として目の前から消えたので、どうしても現実に起こっていると信じがたいから、何かを感じるのでしょう。それを感じるのは私自身で、他の誰でもない。結局は、幻想のようなものではないでしょうか。
 車を走らせながら、ふとそう思った時、私は家内の死をはっきりと認めました。人間は、いや全ての生き物は生まれて死ぬ。そんな当たり前のことをやっと認識したのです。
 私自身もいつかは死ぬ。生きてそして死んでいく。人によっては生きている時間に差がありますが、どっちみち100年程度です。あっという間です。矢沢永吉の「アリよさらば」が心にしみます。
 さてそうなると、残りの人生をどう生きていこうか、という気になるから不思議です。どっちみち大した人生ではないのだから、ここはひとつ、人様に迷惑をかけず、人様に何かしらの役に立つことができたら本望です。健康であれば、お金も何も必要ありません。
 今は、青森山田学園を財政的にも内容においても立派な私学に育て上げること、小さくとも品格があり、21世紀をダイナミックに乗り切る学校に導いていくことができればいいと思っています。そしてもう一つ、ヒマラヤの未踏峰に登ることが望みです。6,000mクラスの未踏峰ならまだ残っています。優秀な若い登山家に連れていってもらわないと登れませんが、それでも自分の足で登らなければなりません。トレーニングに励みたい。
 秋風とともに新しい人生が始まるような気がしています。

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