50 高校時代の先生③

 今回はちょっと変わった先生方を紹介しましょう。私が高校時代を送ったのは昭和34年から37年まで、映画「3丁目の夕日」ごろの時代です。町は荒れたところが多く、戦後が色濃く残っている時代でした。
 そんな中で高校時代はやはり楽しかった思い出が多い。貧乏だったけど何となく「明日はもっと良くなる」という気分があった時代です。高校の先生方も面白い人が多かった。今ではとても考えられないような異色の先生がたくさんいらした。
 よく思い出すのは、K先生。先生は雨の日には必ず「君たちは雨なのになぜ学校に来るんだ。雨の日は家で好きなことをすべきだよ」と言うのです。K先生は私たちの先輩で、昔の学校の話をよくしてくれました。その頃は、本当か嘘かわかりませんが、皆さん雨の日は休んだというのです。特にK先生のお父さんは厳しくて「雨の日にまで学校に行く必要はない」と学校に行かせてくれなかったそうです。雨の日は家にいて好きなことをするのは人間が成長するときに必要だ、と訳の分からないことを言います。先生たちは、仕事で給料をもらっているから雨でも学校に来るが、君たちは金を払っているのだから自由にしなさい、とこれまた面白い論理を展開していました。
 M先生とH先生はともに英語の先生でしたが、この二人の英語が全く違う。M先生はアメリカ英語、S先生はキングス・イングリッシュ。canという言葉の発音をM先生は「キャン」と発音するのだが、S先生は「カーン」と発音します。生徒が、どちらが良いのか質問してもお互いに自分が正しいと引かないのです。その他、微妙な言い回しやイディオムなども違って生徒は苦労しました。
 戦後まもなくですので、戦地から帰ってきた先生も多かった。まだ軍服を着ているのではないかと思わせる先生もいて、戦争の経験談を授業中にするのです。「8キロ行軍はこんな速さだ」と銃を担ぐ真似をしながら教室中を歩き回る。「4キロはこうだ」とまた歩き出す。生徒たちは意外に早いのにびっくりしたり、質問をする。授業そっちのけです。
 シベリアから帰ってきた先生は収容所の悲惨な話をする。昼にスープが出るのだが、グリーンピースが一粒か二粒しか入っていない。かき回しているうちに一粒がスーと浮かんでくる。それを必死に掬い取るんだよ、と身振り手振りで話すもんだからリアリティがある。戦争が良い悪いなんて話ではなく、無理やり戦地に連れていかれ、運命に翻弄される話を懸命に話す先生たち。授業とはまた別な何かを私たちに伝えたかったのかもしれません。
 生徒と先生のカンニング攻防も楽しみでした。生徒たちはあの手この手を使ってカンニングをしますが、先生もさるもの、それを見破るテクニックがすごかった。ある時、試験官の先生が窓越しに外を見ていた。生徒はしばらく静かにしていたが、先生があんまり熱心に外を見ているので次第に大胆になり、カンニングペーパーが堂々と回り始めた。試験が終わってからしばらくたってカンニングをしたすべての生徒が0点、追試となった。先生は回転窓から教室の中を見ていたのでした。
 またある時は、先生が教室内を歩くのですが、いきなりくるりと向きを変えます。先生が過ぎ去ったと思った生徒はそこでカンニングをするわけですが、見事につかまる。
 生徒はそれでも工夫します。1センチ四方ぐらいの紙に細かい字で覚えきれないことを書き込み、手の指の根本に挟んで親指を使って読むのです。見つかりそうになったらそれを飲み込んでしまう。机の下の床にノート大のカンニングペーパーを置き、その上をはだしで隠し、足の指でページをめくって答えを見る・・・などなど考えます。中でも出色だったのは、濃いお茶をインク替わりにしてセルロイドの下敷に回答を書き込む方法です。書いた後、すぐ消えますが、ハーと息をかけると文字が浮かんでくる。見つかりそうになったら指を口に入れ、濡らしてこすれば元の字が消えてしまいます。これは見つかりませんでした。浅野高校秘伝の術です。
 こんな話を書いていると次から次へと先生方の顔が頭に浮かび、きりがありません。古き良き時代だったので、今では通用しないのかもしれません。しかし、いささか乱暴な教育方法だったようですが、教育の意味ということを考えさせられる場面が多くあることも事実です。

筆者が高校2年夏、北アルプス穂高岳縦走。

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