49 高校時代の先生②

 今回は高校時代の恩師の第2弾です。高校2年の時に漢文の授業がありました。先生はとても若く、見たこともない方でした。あとでわかったのですが東大の大学院生だということです。やせ型で背は高く、どことなく研究者っぽい雰囲気でした。
 この先生、丸山昇先生の授業がめっぽう面白かった。聞けば中国文学の研究者で魯迅の研究をしているというのですが、講義は高校時代や戦争中の話、お兄さんが佐野洋という推理作家で金が儲かるとか、その作家の名は「さのよいよい」という掛け声からできたとか、落語を聞いているような感じでした。もちろん生徒たちはみんな笑って楽しい。
 先生にしてみれば、高校の漢文の授業なんて簡単すぎて10分で終わってしまいます。ひと通りの説明をすると、先生は「あとは自分で読んでおきなさい」と言ってよもやま話に移るのです。
 時々機嫌の悪い時に、おしゃべりをしている生徒を見つけるとチョークを半分に折ってなげるのですが、このコントロールが非常に良くて、かなりの率で当たるのです。当てられて、「痛てえ」と頭を押さえる生徒を見て教室がどっと沸きます。それで先生の機嫌が治る。
 先生に質問などをしているうちに、仲良くなり、ある日、友達と3人で東京の大森にある先生のご自宅に遊びに行きました。実家は八百屋さんで、その二階で新婚生活をしていました。6畳間ぐらいの部屋にやけに大きなベッドがあり、そのわきで先生といろいろ話した記憶があります。
 先生は中国共産党の革命や魯迅の生涯について熱心に話してくれましたが、何にも考えない生徒たちには「馬の耳に念仏」といった状態でした。先生はその頃から日本共産党の熱心な活動家だったのですが、私たちにはそういった話はせず、せいぜい魯迅を中心とした革命家の冒険について話す程度でした。
 丸山先生とは高校を卒業して自然に疎遠になっていましたが、6年後、東大の文化人類学の大学院を受験するために東洋文化研究所に泉晴一先生のお部屋を訪ねて構内を歩いていると、見覚えのある、ひょうひょうとした歩き方の背の高い人がこちらに向かってきます。あれっ、と顔を見るとやはり丸山先生でした。
 丸山先生も気が付き、「やあ、岡島君、東大生になったの」と相変わらず気楽な口調でした。そんなことあるわけないだろう、と心の中で思いながらも久しぶりの再会に妙に嬉しかった。大学院のことを話すと、「きっと大丈夫だよ」なんて気楽な言葉を残して、ふらりふらりと去っていきました。先生は後に東洋文化研究所の教授になられました。私の大学院受験はもちろん失敗に終わりましたが、後に泉晴一先生には大変お世話になりました。その話はいずれ書こうと思っています。
 丸山先生はその後、中国現代文学研究の第一人者になられ、『魯迅 その文学と革命』『文革の軌跡と中国研究』『上海物語 激動と混沌の街』『現代中国文学の理論と思想』『丸山昇遺文集(全3巻)』などの著作や『魯迅全集注釈索引』、『中国現代文学事典』、『中国現代文学珠玉選』などの翻訳を多数出版されました。日本共産党に対しては1980年ごろから党中央に批判的になられたと聞いています。正義感の強い先生でしたが、何かがあったのでしょう。
 丸山先生は2006年に逝去されました。先生は、はるか昔の高校教師時代のことは思い出されることがあったのかなあ、と思うことがありますが、今は知るよしもありません。ただ生徒であった私にとっては、かなり強いインパクトを与えてくださった方であったのは確かです。

丸山先生らしさが出ている著作『上海物語』

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