48 高校時代の先生①

 私は中学、高校を横浜市の私立男子校で学びました。6年一貫校です。育ち盛りの男の子ばかりなので、先生方もずいぶん苦労されたと思います。でもユニークな先生もたくさんおられ、今思い出しても懐かしさがこみ上げてきます。
 一方、立派な先生も多く、中でも藤原定家の研究で有名な石田吉貞先生の思い出は強烈です。先生は大正大学の教授でいらしたのですが、校長先生のたっての頼みで、高校に非常勤で教えに来ておられました。
 つい最近、日曜の大河ドラマを見ていて、源実朝が藤原定家に和歌を習っていたという場面が目に入り、その瞬間、石田先生を思い出したんです。何年ぶりか、でした。
 石田先生は、古文を教えておられ、私は徒然草を習いました。高校1年生の初めての授業で、私はたまたま予習をしていたのですが、石田先生が「ここはどういう意味なのか分かるものはいるか」と質問されたとき、私は手をあげ、答えました。すると先生は「おお、ようわかるな。えらい」と言ってくれたのです。気分を良くした私はそれ以来、古文が得意になりました。大学はドイツ文学を選び、後に新聞記者になったのも、この時の先生の一言で文学が好きになったからかもしれません。
 先生は非常に熱心な読書家でした。期末試験で先生が試験監督に来られると、教室中が沸き立ちます。先生は答案を配り終わると、本を広げ、生徒たちがカンニングをしているのに気にもせず、じっと本を読み続けているのです。時間が来ると、何もなかったのように答案を集め、何も言わずに教室を出ていきます。
 生徒たちはカンニングのし放題でしたが、試験が終わってから、なんとなく石田先生の圧力を感じていました。先生の読書に対する姿勢が生徒たちを圧倒するのです。ある時は数学の試験で全員が90点以上をとり、問題になりました。どの先生も生徒たちがそんなに点が取れるわけがないと分かっていました。石田先生が試験官だったからだ、と見当がついていたので、何日かたって再試験が行われ、一部を除いてみじめな成績に落ち着きました。
 先生の授業は親切丁寧で、15,6歳の生徒にも本当に分かりやすかった。授業中、騒いでいる学生には目もくれず、淡々と話して行く。いつの間にか騒いでいた生徒も聞き入ってしまうほどでした。
 大河ドラマを見終わった後、私は石田先生の「藤原定家の研究」を手にしました。箱入りの立派なものです。64歳の時に文学博士を取得されましたが、その研究成果です。先生は新潟県津南町の農家に生まれ、独学で勉強し、小学校の教員になり、後に上京し、苦学して大学を卒業、大正大学の教授となりました。早稲田や東京教育大学などでも教えていました。その一環で私たちの浅野高校にも教えに来られていたのです。
 新聞記者になって10年ほどたったある日、弘前出身の同僚と酒を飲みながら何気なく石田先生の話をしたところ、その同僚も東京教育大学で石田先生に習ったというのです。石田先生の思い出話に一夜を使ったほどです。
 石田先生は故郷の津南町を大切にされ、町の小学校の校歌をほとんど作られたそうです。先生は昭和62年、97歳で逝去されました。津南町には石田先生の歌碑があります。いつか訪ねてみたいと思っています。

石田先生の著作。64歳での博士論文。767ページの労作です。

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