44 先生の思い出②

 大学に入学してドイツ語を習い始めた。ドイツ語の科目は1年生で24単位もあり、山登りしか知らないボンクラ学生は授業についていくのに必死でした。女子学生が多く、みなさん良くできるのです。亀の子のような古い文字も全部覚えなくてはならない。文法も難しかった。山に年間150日も入り、東京では毎日激しいトレーニングがあるため勉強時間がなかなかとれない。
 そんなドイツ語の授業中で、巻き舌のうまい先生がいた。Rを「ルゥー・・・」と長く引っ張り、初心者の私たちに面白く教えてくれていた。「あの爺さん面白いな」というと、女子学生がたしなめるように「岡島さん、あの方はとても有名なドイツ文学者なんですよ」と教えてくれた。それが戸川 敬一(とがわ けいいち)先生でした。
 2年生になる頃にはヒマラヤ遠征が目の前にぶら下がり、来る日も来る日もネパール政府への登山申請書を書いたり、日本山岳会の図書室に通うようになっていた。もちろん山にも行ったしトレーニングも続けていた。だから勉強に割く時間が圧倒的に足りなくなり、ドイツ語もおろそかになってしまった。何しろヒマラヤ以外に興味がないのだから仕方ありません。
 当然のことながら2年の授業は格段に難しくなり、すっかりついていけなくなりました。先生に指されると後ろから誰かが回答をささやいてくれるような状態になってしまいました。先生方は半ばあきらめ顔でいましたが、ドイツ人のルッツェ先生と戸川先生だけはなぜか笑って見守ってくださっていた。ルッツェ先生は神父として世界をめぐっておられたのですが、山が好きで、赴任地はきれいな山があるところばかりでした。オ-ストリア、カナダ、ニュージーランド、そして日本です(国は間違っているかもれません)。岡島は山ばかり登っていると学生から聞いて親近感を持っておられたのでしょう。
 3年生になった時にネパール政府が鎖国してしまい、かなりがっかりしました。代わりにアンデスに行くことになり、1965年2月に横浜から船で南アメリカに出発したわけです。10か月の山旅でいろいろなことを教わりましたが、「やはり勉強しなくてはいけないな」という意識が芽生えたのには我ながら驚きました。
 帰国後、劣等生の私に改めて勉強を教えてくれる先生はなく、あきらめかけていたところ、友人が「戸川先生に習わないか」と言ってくれました。彼は優等生で大学院に進学して将来はドイツ文学の先生になるんだと張り切っている男でした。「俺なんか無理だよ、勉強できないし」と言ったら、彼は「戸川先生は教えてくれる」と自信ありげに言うのでした。
 大学4年目の秋のある日、彼に連れられて戸川先生の研究室にお願いに行ったのです。戸川先生は手帳をにらみながら「水曜日の午後6時からなら時間がつくれる」とおっしゃった。私は全く自信がなく、「ドイツ語が下手なんです」と言ったら、「そんなことは気にしなくていい。勉強しなさい」と言う。
 翌週から友人と二人の特別ゼミが始まりました。暗くなった研究室に入ると、先生が裸電球の電気スタンドのスイッチを入れる。その光の下で読んだのがシラーの詩集でした。シラーはゲーテと並んでドイツ古典派の有名な方です。ベートーベンの「運命」はみなさんご存じだと思いますが、その中に「歓喜の歌」がありますが、その詩の作者です。
 先生が読み、私たちが続く。そして二人の学生が翻訳をする、という授業でした。私も懸命に辞書を引いて追い付こうとするのですが、ほとんどの場合友人の訳に軍配が上がりました。でも楽しかった。勉強していて楽しいと思ったことなどなかったのに不思議です。特別ゼミは3か月ぐらい続いたと思います。今でもあの電灯の光は良く覚えています。思い出すたびに心が温かくなるのはなぜでしょうか。戸川先生が劣等生の私に優しいまなざしで接してくれたからでしょう。
 戸川先生は2002年4月9日に亡くなられました。93歳でした。

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