学長ブログ「学長のまなざし」

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2017/11/20 (月)

学長ブログ 2017/11/20 (月)

随想「大空を見上げて」第六十八回 政治学を学ぶ

 大学で政治学や政治思想史などの講義を聴いたのは半世紀ほども前のことである。当時教えてもらった先生が、現在の政治の姿を見ると、大きな変化に驚くに違いない。どんな理論で説明をするのであろうか。
 10月22日の衆議院議員総選挙をめぐって様々な論評が行われている。最も注目を引き、批評の対象となっているのは、民進党が解体して希望の党に合流することを前原誠司代表が打ち出したが、あえなく失敗に終わったことであろう。政党は、政治思想を同じくする人々が組織する団体であり、 民進党は、従来の流れからしてもそれなりの政治思想を持つ人々の集まりであると言えたが、希望の党は、小池百合子東京都知事の個人的な支援団体と言えるような疑似政党「都民ファーストの会」を母体にした、新しい政党であったから、はっきりした政治思想を基盤に持っていなかった。
 民進党にも様々な考え方の政治家が含まれていたものの、政権を担ったことがある民主党を受け継いでおり、労働者団体の連合の支援を受けるなど、全国的な組織も整備されていた。ところが、大衆に迎合することを信条とし、自らの姿を恰好よく見せようとすることを重視する党首が率いる政党である希望の党に対し、マスコミが応援し、一般の大衆は好意的な態度を取るに違いないと考えてしまった。安倍一強あるいは自民党一強を打破することが目的とされ、その目的が実現できそうな手段であれば、通常の想定では考えられない奇抜な戦法をとっても許されると思い込んだ。
 7月の都議会議員選挙では、小池知事が率いる地域政党「都民ファーストの会」が自由民主党に対し圧勝した。この勢いが国政選挙にも途切れず続くと思ったところに誤算があった。都民ファーストもそうであるが、小池都知事も希望の党もどのような政治理念でどのような政策を進めたいのかまだ明白ではない。東京オリンピック・パラリンピックの競技会場の整備や築地市場の豊洲への移転など、ともかく一旦止めて、それから、注目を浴びるような行動をとって、事態の改善が図られたように見せる政治手法であるが、それだけでは、政策それ自体は正当化されない。極端な東京中心主義であり、東京以外の地域との連携体制、特に都市部以外の地方との協力により我が国の均衡のとれた発展ということは考慮されていない。希望の党が東京都でも他の地方でも伸び悩んだのは、東京都民には、東京第一を止めるのではないかと思われ、また、逆に、地方の人々からは、東京中心主義を全国に及ぼすのかと感じられたからであろう。
 民進党から希望の党への合流が一部にとどまり、排除された民進党議員は、無所属で選挙に出るか、新しく作られた、立憲民主党から出馬することとなった。
 立憲民主党が発足し、政治理念としてリベラルであると説明され、リベラルと保守の対決などという解説が行われた。リベラルというのは便利な言葉である。自由を大切にする立場であれば、リベラリズム(自由主義)を標榜して、支持者拡大を目指すことができる。自由民主党は、様々な立場の政治家を擁しているが、自由民主主義の政党であるので、かなりのリベラルな政策を実施してきたと言える。55年体制が続き、自由民主党と社会党が保守と革新と位置付けられていたときには、リベラルは、自民党の政治理念の重要な要素を構成していた。対して、社会党や共産党は、集団主義が基盤にあり、個人の自由よりも組織全体の利益を優先する考え方を示していたと言うのが正しいと私は思う。
 立憲民主党は、社会党に属していた議員も多く抱え、労働者の権利の拡大などにより、平等を重んじ、資本主義における競争中心の考え方の修正を図ろうとし、護憲派として自衛隊が関わる安全保障、特に集団的自衛権の行使に反対するという政治姿勢を貫こうとしているようである。かなり保守的な考え方であり、原理を大切にする政党であると思われる。現政権が、改革(働き方改革など)だ、革命(人づくり革命など)だと叫んでいるのとは大きな違いがある。立憲と言うからには、憲法については、時代の要請なども考慮し、活発に議論を進めるべきであろう。
 政治学において、政党が離合集散する際の動機や理由などもいろいろ分析されているのであろうが、希望の党と民進党が一緒になるという話は、常識的には、水と油ほどではないものの、融合しないことは明らかであった。しかるに、報道機関の論調では、これで、現在の政治状況が大きく変化するはずだという思い込みが強かったのではないか。都議会議員選挙に関しては、東京都民に対し、小池知事が政治家として卓抜であると思わせることが成功したので、衆議院議員選挙でも、全国民が新聞論調を信じるであろうと考えたのであろうか。
 政治学において、マスコミの役割と一般大衆の意識と行動が説明されるが、一般の人々は、時には、マスコミの過熱した報道に騙されても、同じことが続くと、誤りを繰り返さないようにする判断力が育つ、と考えていいのであろうか。今回の選挙の教訓により、国民全体として政治や政治家を評価する力が高まったとは、到底考えられない。
 やはり、決め手は、政治家の能力であり、リーダーシップの取り方である。政治家には、真の政治家(statesman)と政治屋(politician)がある。大切なのは、使命感・責任感である。国民のために、人々のために、奉仕する、献身することを第一義とするか、自分自身の名誉や経済的利益を優先させるか、の違いである。政治権力を持つことが目的となって、政策の内容は問題とせず、自己顕示ができればうれしいだけでは困る。
 中曽根康弘元総理は、「だからこそ同時に、首相たるもの『権力の魔性を自戒せよ』と自覚しなければならないのです。権力は決して至上ではありません。権力、とくに政治権力は、本来、文化に奉仕するものです。文化発展のため、文化創造のためのサーバント(奉仕者)なのです。」(「自省録」 新潮文庫)と述べている。
 小池東京都知事は、希望の党の代表を辞任したようであるが、これまでの一連の右往左往は、政治家に対する信頼感を失わせるものであった。政治が正しく全ての人々の幸福の増大を目指して活動している状況を取り戻したいものである。
 青森大学の教育により学生に身に付けてほしい3つの力のひとつは、「自分自身を見据え、確かめる力」である。社会の一員として自らの姿を客観視して見極め、社会において自ら果たすべき責任を自覚し、自身の能力・資質の成長を確認して、新たな課題を発見し、改善策を見出す活動ができるよう、思考し行動することができる力である。
 政治家にこそ身に付けてほしい力であると考えてもいいような気がする。
 政治学の教科書がどのように書き換えられるか、待ち遠しい。

          初雪やいやます白さあおもり犬
                平成29年11月          崎谷康文